うりおの日記

青年海外協力隊27年度2次隊としてモザンビークのビランクーロという町にいます。職種はコミュニティ開発です。

この投稿では印象的だった諸々の活動について記載する。

養蜂について

 

派遣の最初の目的は養蜂の普及だった。グループ派遣という形で同じ州に6、7人が派遣されており、ブラジル在住の日系ブラジル人養蜂家が、年に4回ボランティアに養蜂の研修を施し、そこで学んだことを各ボランティアが任地で普及する、という壮大なプロジェクトの一部として派遣された。なぜ日系ブラジル人なのかというとモザンビーク公用語ポルトガル語だからだ。私が派遣された時期はプロジェクトの残り期間が1年というあたりだった。

派遣前は現地で養蜂に取り組む気マンマンで、つてを頼って一日養蜂体験をさせて頂いたり本を読んで養蜂をやるイメージを膨らませていた。

でも実際には養蜂をやらなかった。農業関係全般に言えることだが、2年間の任期中に収穫できるのは一回、多くて二回なのでトライ&エラーの回数が少なすぎることが大きな理由だ。他にも色々理由はあったが省略する。同じような理由でネリカ米(乾燥に強いお米の品種NEw RIce for AfriCA。JICAが積極的に普及している)の普及にも手を出さなかった。同じ州の他の任地のボランティアは養蜂かネリカ米もしくは両方の普及をメインでやっている場合が多い。

任地へ行く前の調整員さん(ボランティアの世話役の人)との面談では「最低一回は養蜂の研修に参加するように。それ以降は養蜂をするかしないか自分で判断してよい」とのことだったのでそうさせてもらった。

 

ハチミツパン売り(特産品の開発)

 

任地についてだいたい3か月目ぐらいで始めた。

養蜂の勉強のためにいろんな人にお世話になったにも関わらず、結局何もやらなかったので罪悪感があった。せめて自分に出来ることで養蜂に関係することは何かを考え、ハチミツの需要を増やそうと思って企画した。

任地ではコッペパンに何かをはさんだサンドイッチが軽食として広く普及しており、卵焼きをはさんでマヨネーズをかけたものかハムをはさんだものが売られていた。販売方法は子どもがプラスチックのケースに入れて行商する、お店で売る、道端の露店で売るなど様々ある。

コッペパンにハチミツとマーガリンをはさんだものを作ってみた。日本のコンビニで売られているものとだいたい同じ味になる。販売価格を既存の類似商品と同額に設定し利益計算をすると一個売って利益はだいたい10円だった。

1、2か月、自分で行商をして感触を確かめてみたところ、半日でだいたい10個売れた。1日の利益が100円ならば子どもの仕事か露店の人のサイドビジネスとして成立する。仲の良かった露店のおばちゃんに販売を託してみた。

そうすると不思議に売れない。見ていると、おばちゃんは商品のアピールをしない。私がそばにいて声掛けをすると少しは売れるがおばちゃん自らお客さんを呼ぶということはなかった。地元の人たちには露店の商品に対する不信感もあった。「道端で売っているモノを食べるとお腹を壊すよ」というのは多くの人から言われた。私自身はそういうのを食べてもお腹を壊すことはなかったのだが。外国人が行商をやっているという物珍しさも手伝って購入してくれていた、というのもある。外国人なら質の悪いものを売らないという安心感もあったかもしれない。

全然売れないので販売委託先を変更しようか考えていたところ、そのおばちゃんが盗難に遭いハチミツなどの資機材一式を盗まれて終わった。

ギターを弾いてお客さんを集めたり、ぶらぶら歩いてハチミツパンを売るのは結構楽しい経験だった。

 

養鶏

 

私は同じ任地に派遣された三代目の隊員で、初代二代と続けてお世話になった農家さんと養鶏をした。任地について1か月ぐらいで養鶏をすることが決まって鶏小屋の建設を始めた。ポケットマネーを貸して鶏小屋を作るところから始めた。マックス時で50羽ほど飼育していた。クリスマスの時期に鶏の価格が高騰するのでその時期に販売しようかと話していたら直前で盗難にあい、もう少し増やしてから売ろうかとなった矢先に伝染病でほぼ全滅した。帰国前には15羽まで増やしたが販売には至らなかった。販売のところで何かトライできると思っていたので残念だ。

伝染病で死んだ鶏は農家さんが穴を掘って燃やして埋めたらしいのだが、伝染病で死んだ鶏は食べられないのだろうか今も疑問だ。農家さんに「なんで食べなかったの?」と聞いたら「食べたら病気になって死ぬ」ということだった。もしも食べられたのならみんなで鶏パーティーが出来たのに。

都市部のレストランの残飯をエサとして活用するというのをやっていた。協力してくれるレストランに毎日行って残飯をもらう。自宅の冷凍庫に保存しておき週に1回村に持っていく。体感20kgの氷の塊を運ぶのはいい運動だった。鶏が一度全滅した後、農家さんが自分でブタを飼い始めておりブタのエサとしても活用されていた。これを仕組化したかったのだが出来ずに終わった。

鶏もブタもかわいくてなごんだ。

貸したお金は当時のレートでだいたい10万円だが私の任期中には返ってこなかった。

 

観光客誘致用の町のホームページ作り

 

任地が観光地なので観光産業の促進を目的として町のホームページを作成するというのをやった。確か半年目ぐらいだったと思う。任地に行った当初、配属先で一緒に活動をしたい人を探す中で、観光の担当者がいい感じだったので、その関連のことをいろいろ考えた。これはその一つだ。任地にあるホテルやレストラン、お土産屋さんの紹介をする感じにしようということになった。

ホームページ関係の知識はゼロなので色々な人に質問をして始めた。始めてみると思ったよりもテクニック的に難しく、観光担当も自分の仕事があっていつも私に付き合ってくれるわけではなく、部屋にこもってパソコンをポチポチいじっているのが馬鹿らしくなり確か2つ記事をアップして終了した。パソコン関係は自分には向いていないことが分かった。

任期終了の半年ぐらい前に、観光担当の人から「ホームページどうなった?」と聞かれて、「ずいぶん前に止めた。君がやりたいのなら今から勉強し直してやり方を教えるよ。結構大変だと思うけどどうする?」と応じた。その後何も言ってこなかったのでそのままになった。

 

ランニングクラブ

 

町にはジョギングをしている人が何人かいて、そういう人と一緒に走れたら楽しいだろうなと思ってやってみた。募集のチラシには当時体重約100kgで福井マラソン10kmを走った自分の写真を採用した。効果バツグンだった。2週間ほどチラシを配って人を集めた。うまくいくかと思いきや、バイクでこけてしまって走れなくなり、運動しないので太って諦めた。怪我が治ってからジョギングをしていると、チラシを配った人から「太ったねー!ランニングクラブはどうなったの?」と聞かれることがあった。「痩せるから待ってて!」と返していたが待ちぼうけを食わせてしまった。毎日おいしいものを食べすぎた。

 

観光客向けの現地文化講座

 

現地語を習っていた先生が経済的に大変そうだったので企画した。内容は現地語の日常会話と郷土料理の教室だ。料理の方は先生の奥さんが担当することになった。現地語の簡単なあいさつや日常会話を載せた小さな教材を作りバックパッカーがよく泊まるホテルへ売り込んでみた。最初の売り込みでは「今は観光のシーズンではないのでまた来てくれ」と追い帰され、それから何回か顔を出してみたのだがスルーされた。現地語を使って市場で買い物をするとか、地元のおばあちゃん(先生の奥さん)と郷土料理を作って一緒に食べるとか、そういうのが好きな層は存在すると思うのだが。先生が80歳を超えており体力的に不安視されたというのはあるかもしれない。

 

オレンジピール(オレンジの皮を砂糖で煮詰めたもの)

 

タクシーグループの運転手の奥さんに、学校の前で生徒さん相手に軽食を売っている人がいて仲良くなった。5、6人が軽食を売っているのだが、みんな少ない種類の同じ商品を売っているので商品を増やしたら楽しいんじゃないかと思って販売を勧めてみた。レシピは先輩隊員からもらった。オレンジの皮は道端でオレンジを売っている人に言えばただで手に入る。

自宅で練習したうえでお宅にお邪魔し一緒に作ってみたがあまり響かないようだった。家で再度練習していると、居合わせた友人に「そんなに砂糖を使って。もったいないし病気になるよ」と言われ、「正論だ」と思って止めた。

この理屈でいくと砂糖、塩、油などを大量に使う保存食関係は全てダメになるが、任地では塩漬けにされた魚の干物があるので全てがダメというわけではないらしい。魚はもったいなくてもオレンジの皮はもったいなくないということだろうか。実際にもったいなくないのだが。オレンジの皮を土に還すのと、砂糖と火を使って糖尿病のリスクを高めるのとではどちらがエコなのだろう。

単に馴れていないというだけの可能性もある。未経験の味覚を楽しもうという意識がない人が多い。それが悪いという訳ではなくて。

この壁を破ろうとするならばオレンジピールの普及に情熱を燃やす必要があるのだがそこまでの情熱はなかった。

 

小さい頼母子講(たのもしこう)

 

市場のおばちゃんたちと関わるなかで、彼女たちには商売に割く余力が少ないことが分かった。興味の中心が家族にあることも分かった。最小の努力で生活の質を少し上げる方法はないかを考えてこれを思いついた。マイクロファイナンスの原型みたいなもので、ざっくり言うとお金を融通し合うグループだ。日本では無尽、講などとも呼ばれている。沖縄ではもやいというらしい。モザンビークにもある。市場で働くおばちゃんのなかでそういうグループ(現地語でエスティーキという)を主催している人がいて、興味があったので見学させてもらっていた。他のところも見てみて、どうやらこの地域では一回の受け取り額が約10,000円で主に商売向けに利用されていた。小さくして家庭での消費用に出来ないかと思った。

エスティーキを主催しているおばちゃんに「家でパーティーをするための小さいエスティーキを作らないか?」と聞いてみると乗り気だったので一緒に計画した。

計画では、

5人か6人でグループを作る。

週に1回一人200円ぐらいずつ出す。

メンバーが週ごとで順番に1,000円か1,200円ずつ受け取る。

一周したら逆に回る。

繰り返す。

という風になった。

グループ内の全員がお金の貸主になり借主になる。利子のない金融機能だ。

実現すれば家でごちそうを食べる機会が少し増えるはずだったがなかなかメンバーが集まらず、そのうちエスティーキを主催しているおばちゃんの商売がダメになって市場に来なくなった。そのおばちゃんが市場からいなくなってからも声掛けをし続けたが実現できずに終わった。

なぜメンバーが集まらなかったのか。多分、経験から失敗をすることが分かるからだ。みんな詳細には話さないがお金関係で嫌な思いをした経験があるようだった。私でも失敗のパターンが想像できる。人間関係は重要な資産なので、人間関係が壊れるリスクは極力負いたくないということなのかもしれない。

この仕組みで一番良い点は、ダメになっても(メンバーの誰かがお金をもって来られなくなっても)ダメージが少なく、ある程度時間をかければ再開可能なところだと思っていたので、とりあえず試してみてどんなことが起こるか見てみたかったのだが。まあ求められないことをやろうとしてもダメだ。

 

普通の人が状況を改善しようとするとき、似た立場の人とグループを作るというのは基本的な戦略だと思う。特に、お金を極力使わずにアイデアで何かしようとする場合グループ化はほぼ全ての事例で必要になる。だがそこが難しい。

グループをまとめるのは大変だと分かっていたので個人とやる活動をたくさんやったのだが、個人との活動では効果に広がりが少なかった。場の相乗効果みたいなのもグループでの活動の方がある。みんなでやった方が楽しいし。

タクシーグループの活動も楽しかった。失敗して落ち込んでいると思われているかもしれないが、ミーティング時の騒いでいるのか話し合っているのかどっちか分からない感じは今思い出してもうれしくなる。

 

アフリカのことわざで、「早く行きたければ一人で行け。遠くへ行きたければみんなで行け」というのがあって、モザンビークでも公的機関の啓発ポスターにポルトガル語で書いていた。なぜそのことわざをいちいち掲示しているのかというと実現が難しいからなのだろう。実現が難しいからといって目指さなくていいわけではない。

 

日記付け

 

帳簿付けのバリエーション違いとして活動の終盤にやってみた。「書くこと自体を楽しむのはどうか」と思って日記をつけることを勧めたのだ。自分の経験から日常を文字にして現状を客観視することは大きな意味があると思ったからだ。ブラジルの教育学者パウロフレイレから政治色を抜いた感じを目指した。結果として10人ほどと交換日記をするようになった。ただこちらから言わないと書かないので継続する見込みはなさそうだった。日記付けを始めてすぐに、「これをやるなら何らかの教育機関にアプローチした方がよい」と気付いたが時間が無くて出来ずに終わった。交換日記は1か月ほど継続した。

 

活動全般について

 

任地を離れる2週間ぐらい前に、その辺でジュースを飲んで店のおばちゃんと話しをしていた。話の流れは忘れたが、そのおばちゃんが遠くの町に行った際、道でストリートチルドレンの女の子と出会い、かわいそうだからと連れて帰ってきて育てているということを教えてくれた。家族は大反対したが「かわいそうだから」の一点で押し切ったそうだ。すでに5年ほど育てており学校にも行かせているらしい。「この町には孤児院がないから作りたいの。私の夢なのよ」と言っていた。

孤児院を運営するより家族として子どもを育てる方がある意味では大変だと思うのだが、「かわいそうだから」だけでやってしまう懐の深さに脱帽した。

その時の会話で、市場にいる汚れた感じの子どもたちに家がないということも始めて知った。恥ずかしい話だが。

配属先がお金関係のところなので主に収入向上について活動したのだが、お金関係のこと以外のことをやろうとしても、話し方次第で配属先は認めてくれたと思う。

分野とかに関係なく自分に出来ることはいくらでもあった。アンテナが低かった。

 

先輩の隊員に教えてもらったのだが活動は二つしかないそうだ。「仕組作り」と「人材育成」とのことだ。ボランティアが帰ってからも地元の人で活動を発展できるようにしなさいということだと思う。一応、そういうところを目指していたので任期が終わりに近づくほど新しい活動を控えるようになった。先のことなど心配せずもっといっぱいやればよかったなと今は思っている。どの活動も始める時の熱みたいなものが一番楽しいのでもっと味わっておけばよかった。

 

写真は行商仲間の人

 

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