うりおの日記

青年海外協力隊27年度2次隊としてモザンビークのビランクーロという町にいます。職種はコミュニティ開発です。

今回の投稿で個人的な振り返りはとりあえず終わりだ。

要約:

・任地の人にお金を貸したら勉強になった。

・「お金やモノをあげる系」の活動はやらなかった。やりたくなかったからだ。

・協力隊は自由すぎてつらいときもあるがそこがいい。

 

お金を貸した話

 

現地にいるとお金を貸してほしいと言われることがよくある。最初はそういうのがすごいイヤでしかたなかった。お金はJICAから生活費がもらえて多少は余るので余裕がある。いざとなればカードをATMにつっこめば日本の口座から引き落とされるので困ることはない。求められる金額もそんなに大きいものではない。もともと派遣される時に「トライアスロン用のちょっといい自転車を買う」ぐらいのお金は使っていいルールにしていたので別に惜しくない。

なぜこんなにイヤなのか考えるに、相手との本当はペラい人間関係が試されてそのペラさが露呈することがイヤなのだと思っているのではないかと仮説を立ててみた。そうするとだいぶ腑に落ちてさらにイヤな気持ちになった。

 

ともあれお金を貸すと人間関係が壊れることが多いので基本求めに応じなかったのだが、普段付き合っている人が困っているのも忍びないので「消極的になりすぎない」ぐらいのスタンスで対応した。お金を貸したらどうなるか興味がある、というのもあった。20件ほど求めに応じた。金額は5,000メティカイスだいたい10,000円の場合が多かった。銀行のATMでお金を下す時の上限がこの金額で、なんとなく金銭貸借や仕事上のお金の単位みたいになっている。日本では個人的にお金を貸すことなんてなかったので自分にとっては初体験だ。信頼関係のある人に貸したので遅れることがあってもだいたい返ってきた。遅れない事例はなかった。期日が過ぎた後にこちらが困っていることを伝えると返済するというのがだいたいのパターンだった。

中には返さずに済まそうとする人もいた。返済の催促に行くと、これまでキャッキャ笑って迎えてくれた子どもたちの態度が全然違う。急に泣き出したりする。子どもをガードに使うのは卑怯だと思うのでそういう人にはより積極的に催促をするのだがそのような人から返済させることは出来なかった。

個人間で金銭貸借を行う場合、お金を貸した瞬間から力関係が逆転する。お金を貸す前は貸し手が強く、貸した後は借り手が強い。借り手がお金を返済しない、できない場合、無言で返済期限を延ばそうとする。催促すると開き直るもしくは逆ギレする。貸し手は大きい声を出すぐらいは出来るがそれ以上は何もしようがない、ということが分かった。日本においてウシジマくんみたいな人がこういう仕事をやっている理由が良く分かった。

 

文化的にはお金持ちが金銭的に貧しい人を助けるのは当然とされているので、借金が返済されないような場合、貸し手は男気を見せるというか余裕を持って返済を待つことが奨励されるようだ。言葉の場合もあったし言葉ではない場合もあったがいろいろな人たちからそのようなメッセージが送られた。

「困っている人を助けるのは大事だけれどお金を貸すのはやめておいた方がいい」というアドバイスもよく受けた。文化的には貸すべきなのでモゴモゴとアドバイスしてくれる。

日本人の私としては期日通りに約束した金額を返済するのが当然という考えなので、文化的な摩擦を起こしながら適切な距離感を学んだ。

 

その学びって必要?と言われるとよく分からないところだが精神的負荷が高かったので書いてみた。

お金を貸して相手が返すプロセスを通じて人間関係が深くなるというポジティブな事例も多かったことを補足しておく。

 

お金やモノをあげる活動について

 

配属先で最終報告をする日、発表まで所長さんを2時間待った。1時間待ちというのは普通だが2時間待ちは長い部類だ。待っている間、同僚数人に発表用の資料を見せながらセミディスカッションというかざっくばらんな意見交換をしていた。上司がいると本音の議論は不可能なので。プレゼン内容はこれまで投稿した内容をきれいにした感じのものだ。

同僚から質問が出た。「都市部の残飯を養鶏用のエサに使う活動の中で、冷凍庫を買って町と村の両方においたら継続できるんじゃないか?なんで買わなかったんだ?」という内容だった。それをきっかけとして議論が発展し、「なんでタクローはモノをあげないんだ?」という話しになった。しばらく悩んだのだが、「俺はそれが好きじゃないからだ!」と答えた。同僚たちが心の中でずっこける感じが伝わってきて議論はうやむやになった。

 

同僚は公務員で、公務員の仕事は税金と海外からの援助の分配だ。だから同僚がそういう発想になった背景はよく理解できる。「タクロー、もっとお金やモノを外国から引っ張ってきて配れよ。それがこの町のためだろ」ということだ。この意見は間違っていない。

 

自分の活動では、俗にいう「魚をあげるより魚をとる方法を教える」というか「一緒にとり方を考えよう」という感じで、お金を使うのは最小限にして後は知恵と努力で生活を良くすることを目指した。

お金を使ったのは、町の清掃イベントでの消耗品と市場で帳簿を普及する時のノート代だ。これらはJICAからお金を出していただいた。あとは鶏小屋を作るときと近所の人と雑貨屋をやる時、それと三輪タクシーを1台買った。これらでは個人的なお金を最小限だけ貸し付けるもしくはローンで売るという形をとった。結果的にあげた形になったものはあるが最初からあげるというのはしなかった。「お金をかけるなら最小限にする。モノやお金は基本的にあげない」というのは自分の中では前提に近いものだった。

 

でも「お金をかけるなら最小限で、あとは知恵と努力でなんとかする」≒「お金をかけるよりも困難な事業に現地の人を巻き込む」だということもやってみて分かった。特に収入向上活動では競争に勝たないといけないのでその傾向が強いと思う。近所の人と雑貨屋をやっている時に強く思った。

 

雑貨屋さんの競合のインド人たちは人脈と資金力があり、販売価格を低く設定できる。片や最小限の資金力しかない近所の人は任地の少し高めの卸売屋さんから商品を購入し、首都から商品を仕入れているインド人たちと戦わないといけない。利益は少なくなる。売上も多くはない。インド人たちは自分で購入した店の場合が多いが近所の人は店を借りたので家賃を払う必要もある。

養鶏についても販売の過程で他と競争する必要が出てくる。他の養鶏業者に対する優位性を持たせるところまでは行けなかったので苦労すると思う。

 

アフリカと関わり続けるなら「お金やモノをあげる系」は多分将来できるから、今は現地に長期滞在しないと出来ない地道なことをすべきだ、というのは自分に対しては言える。でも任地の人たちに私のキャリアパスは関係ない。JICAのお金を使わせてもらう場合、近所の人とお店をやるような私的なことはできないが、より公共性が高くかつ一緒にお店をやった人が裨益するプロジェクト案は出そうと思えば何か出たと思う。

同僚の意見は痛いところをついていた。

 

任地には海外の援助機関とかNGOとかとの仕事をした人がいて、そういう人はまた同じような仕事が欲しくてよく外国人に話しかける。普段は農作業をやらないのに畑でクワを持った写真だったり、謎の白人と一緒に写った写真を見せてきたりする。そういう人たちは独特の目つきをしている。外国人を見るとき、特に私のような援助関係の人を見るときに、何かを狙うようなイヤな目つきになる。

念の為に言っておくと、そういう人は外国人の考え方と地元の人の考え方が理解できるので人材としては貴重だ。そういう人が居てもいいと思うし必要だが、積極的に増やすことはしたくなかった。少なくともこの2年間では。

我ながらナイーブすぎるとは思うがそういう理由で「お金やモノをあげる系」はやりたくなかったしやらなかった。

 

所長さんが来てみんなの前でプレゼンをして質問の時間になった。さっき議論をしていた同僚から質問が出た。

  1. 活動で苦労した点は何ですか?
  2. 人々の「依存心」です。自分で努力をすることなくお金をくれモノをくれという態度が開発において最も大きな障害だと思います。

同僚は納得したようだった。建前上は。

 

協力隊について

 

協力隊の目的は、正確な文言は忘れたが「日本の若者の育成」「文化交流」「技術移転」の3つだ。前の2つはとりあえず置いておく。

「技術移転」の対象は配属先で、配属先同僚の能力を向上させることが求められる。ただ同僚はそれぞれに仕事がありボランティアにかまう余裕がない場合が多い。私が見聞きした限りでは「配属先同僚と一緒に活動しなければならない」という強制力はそこまでなかった。

配属先は農業、漁業、畜産業、観光業、商業の振興を図るという業務の幅が広いところだ。

 

これらの条件を自分なりに解釈すると、「任地で地元の人のためになることをあなたなりにやってください」ということになった。実際にこの姿勢で2年間やっていたが活動についてJICAからお叱りを受けることはなかった。私が何かやろうとするとき調整員さんは常に応援してくれた。調整員さんには恵まれたと思う。大学生の夏休みぐらい時間があって自由な環境だった。JICAは安全管理のためにいろいろルールを設けており、具体的には移動に関する制限が多いのだが、特に旅行好きというわけではないので気にならなかった。

 

自由過ぎてつらい日も多かった。朝、配属先に行く。7:30から始業で同僚はだいたい8:00すぎに出勤する。スマホに夢中の同僚を横目で見ながらポルトガル語を勉強する。10:00には配属先にいることがイヤになって町に出る。適当にブラブラ歩いて町の人たちとおしゃべりする。昼食をとってからまたブラブラして早い時間からまずいビールを飲む。任地に着いてしばらくは毎日だいたいそんな感じだった。誰にも何も求められない。2年間で一番つらかったのはこの点だ。「学校の先生として派遣された人がうらやましい。活動の場があるから」というのは何人かから聞いた。私も同じことを思った。

 

でも24時間好きなことが出来て生活が保障されているというのは最高の贅沢だと思う。2年間と、期限が明確な点もいい意味でプレッシャーになった。生活上は断水とか停電とか病気とかいろいろあるがそういうのは割とすぐに慣れた。あとはもう貴族みたいなものだ。

活動の場がない苦しさも必要な過程だったと今では分かる。最初から場所があったらそこに居付いてしまっただろう。結果的にほぼやりたいことだけにトライさせてもらえた。すごい制度だと思う。

 

もちろん、職種(コミュニティ開発、何でも屋)、配属先(業務の幅が広い。放任)、任地(一番近くの日本人がいる町までバスで3時間)、前任(引き継がなければならない活動を残さなかった)、JICA事務所の意向(何をやるにも応援してくれた)、など様々な条件が揃って協力隊って自由でよかったという結論に達しているのであくまでも個人の見解だ。

 

写真は家の近所のバー

 

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