うりおの日記

青年海外協力隊27年度2次隊としてモザンビークのビランクーロという町にいます。職種はコミュニティ開発です。

E agora?

 

 

Um livro para crianças lidando com o luto por suicídio.

lidar

luto  profungo pesar causado pela morte de alguém

Assim como a flor desabrocha.

desaborachar

Assim como a lagarta vira borboleta.

lagarta

Não são castigos.

Pode demorar para melhorar e deixa cicatrizes. Mas essas cicatrizes a gente não vê, so sente.

Porém, antes de terminar, gostaria que você pensasse, escrevesse ou desenhasse essas três perguntas muito importantes.

 

O gato comeu

Cadê o pãozinho que estava aqui?

Vire a página para aprender a brincadeira.

Quando os dedos estiverem próximos do ombro, o adulto faz cócegas debaixo do braço da criança.

Essa brincadeira pode provocar excesso de risadas. Cuidado para não exagerar.

cadê どこにあるOnde estaの口語

legal よい fine

bravo 形容詞 怒っている 乱暴な

levado 手におえない

cócegas くすぐり

risada 大笑い

 

O passarinho na Gaiola

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Quando Jay chagava da escola, corria para os fundos da casa, para visitar o novo amigo.

Da janela do quarto, jay ouvia o passarinho, o que o deixava feliz.

Ate que, um dia, Jay quebrou o pé.

Blue parecia entender a tristeza do menino por não poder jogar bola e andar de bicicleta com as outras crianças.

Jay desejou que Blue também fosse livre e pudesse voar

pousar 置く 休ませる

bater 羽をバタバタさせる

piar ピーピー鳴く

gesso ギプス

receio 不安 恐怖

alçar to raise

tomar coragem

avistar ちらりと見かける

galho 枝

em seguida すぐに

今回の投稿で個人的な振り返りはとりあえず終わりだ。

要約:

・任地の人にお金を貸したら勉強になった。

・「お金やモノをあげる系」の活動はやらなかった。やりたくなかったからだ。

・協力隊は自由すぎてつらいときもあるがそこがいい。

 

お金を貸した話

 

現地にいるとお金を貸してほしいと言われることがよくある。最初はそういうのがすごいイヤでしかたなかった。お金はJICAから生活費がもらえて多少は余るので余裕がある。いざとなればカードをATMにつっこめば日本の口座から引き落とされるので困ることはない。求められる金額もそんなに大きいものではない。もともと派遣される時に「トライアスロン用のちょっといい自転車を買う」ぐらいのお金は使っていいルールにしていたので別に惜しくない。

なぜこんなにイヤなのか考えるに、相手との本当はペラい人間関係が試されてそのペラさが露呈することがイヤなのだと思っているのではないかと仮説を立ててみた。そうするとだいぶ腑に落ちてさらにイヤな気持ちになった。

 

ともあれお金を貸すと人間関係が壊れることが多いので基本求めに応じなかったのだが、普段付き合っている人が困っているのも忍びないので「消極的になりすぎない」ぐらいのスタンスで対応した。お金を貸したらどうなるか興味がある、というのもあった。20件ほど求めに応じた。金額は5,000メティカイスだいたい10,000円の場合が多かった。銀行のATMでお金を下す時の上限がこの金額で、なんとなく金銭貸借や仕事上のお金の単位みたいになっている。日本では個人的にお金を貸すことなんてなかったので自分にとっては初体験だ。信頼関係のある人に貸したので遅れることがあってもだいたい返ってきた。遅れない事例はなかった。期日が過ぎた後にこちらが困っていることを伝えると返済するというのがだいたいのパターンだった。

中には返さずに済まそうとする人もいた。返済の催促に行くと、これまでキャッキャ笑って迎えてくれた子どもたちの態度が全然違う。急に泣き出したりする。子どもをガードに使うのは卑怯だと思うのでそういう人にはより積極的に催促をするのだがそのような人から返済させることは出来なかった。

個人間で金銭貸借を行う場合、お金を貸した瞬間から力関係が逆転する。お金を貸す前は貸し手が強く、貸した後は借り手が強い。借り手がお金を返済しない、できない場合、無言で返済期限を延ばそうとする。催促すると開き直るもしくは逆ギレする。貸し手は大きい声を出すぐらいは出来るがそれ以上は何もしようがない、ということが分かった。日本においてウシジマくんみたいな人がこういう仕事をやっている理由が良く分かった。

 

文化的にはお金持ちが金銭的に貧しい人を助けるのは当然とされているので、借金が返済されないような場合、貸し手は男気を見せるというか余裕を持って返済を待つことが奨励されるようだ。言葉の場合もあったし言葉ではない場合もあったがいろいろな人たちからそのようなメッセージが送られた。

「困っている人を助けるのは大事だけれどお金を貸すのはやめておいた方がいい」というアドバイスもよく受けた。文化的には貸すべきなのでモゴモゴとアドバイスしてくれる。

日本人の私としては期日通りに約束した金額を返済するのが当然という考えなので、文化的な摩擦を起こしながら適切な距離感を学んだ。

 

その学びって必要?と言われるとよく分からないところだが精神的負荷が高かったので書いてみた。

お金を貸して相手が返すプロセスを通じて人間関係が深くなるというポジティブな事例も多かったことを補足しておく。

 

お金やモノをあげる活動について

 

配属先で最終報告をする日、発表まで所長さんを2時間待った。1時間待ちというのは普通だが2時間待ちは長い部類だ。待っている間、同僚数人に発表用の資料を見せながらセミディスカッションというかざっくばらんな意見交換をしていた。上司がいると本音の議論は不可能なので。プレゼン内容はこれまで投稿した内容をきれいにした感じのものだ。

同僚から質問が出た。「都市部の残飯を養鶏用のエサに使う活動の中で、冷凍庫を買って町と村の両方においたら継続できるんじゃないか?なんで買わなかったんだ?」という内容だった。それをきっかけとして議論が発展し、「なんでタクローはモノをあげないんだ?」という話しになった。しばらく悩んだのだが、「俺はそれが好きじゃないからだ!」と答えた。同僚たちが心の中でずっこける感じが伝わってきて議論はうやむやになった。

 

同僚は公務員で、公務員の仕事は税金と海外からの援助の分配だ。だから同僚がそういう発想になった背景はよく理解できる。「タクロー、もっとお金やモノを外国から引っ張ってきて配れよ。それがこの町のためだろ」ということだ。この意見は間違っていない。

 

自分の活動では、俗にいう「魚をあげるより魚をとる方法を教える」というか「一緒にとり方を考えよう」という感じで、お金を使うのは最小限にして後は知恵と努力で生活を良くすることを目指した。

お金を使ったのは、町の清掃イベントでの消耗品と市場で帳簿を普及する時のノート代だ。これらはJICAからお金を出していただいた。あとは鶏小屋を作るときと近所の人と雑貨屋をやる時、それと三輪タクシーを1台買った。これらでは個人的なお金を最小限だけ貸し付けるもしくはローンで売るという形をとった。結果的にあげた形になったものはあるが最初からあげるというのはしなかった。「お金をかけるなら最小限にする。モノやお金は基本的にあげない」というのは自分の中では前提に近いものだった。

 

でも「お金をかけるなら最小限で、あとは知恵と努力でなんとかする」≒「お金をかけるよりも困難な事業に現地の人を巻き込む」だということもやってみて分かった。特に収入向上活動では競争に勝たないといけないのでその傾向が強いと思う。近所の人と雑貨屋をやっている時に強く思った。

 

雑貨屋さんの競合のインド人たちは人脈と資金力があり、販売価格を低く設定できる。片や最小限の資金力しかない近所の人は任地の少し高めの卸売屋さんから商品を購入し、首都から商品を仕入れているインド人たちと戦わないといけない。利益は少なくなる。売上も多くはない。インド人たちは自分で購入した店の場合が多いが近所の人は店を借りたので家賃を払う必要もある。

養鶏についても販売の過程で他と競争する必要が出てくる。他の養鶏業者に対する優位性を持たせるところまでは行けなかったので苦労すると思う。

 

アフリカと関わり続けるなら「お金やモノをあげる系」は多分将来できるから、今は現地に長期滞在しないと出来ない地道なことをすべきだ、というのは自分に対しては言える。でも任地の人たちに私のキャリアパスは関係ない。JICAのお金を使わせてもらう場合、近所の人とお店をやるような私的なことはできないが、より公共性が高くかつ一緒にお店をやった人が裨益するプロジェクト案は出そうと思えば何か出たと思う。

同僚の意見は痛いところをついていた。

 

任地には海外の援助機関とかNGOとかとの仕事をした人がいて、そういう人はまた同じような仕事が欲しくてよく外国人に話しかける。普段は農作業をやらないのに畑でクワを持った写真だったり、謎の白人と一緒に写った写真を見せてきたりする。そういう人たちは独特の目つきをしている。外国人を見るとき、特に私のような援助関係の人を見るときに、何かを狙うようなイヤな目つきになる。

念の為に言っておくと、そういう人は外国人の考え方と地元の人の考え方が理解できるので人材としては貴重だ。そういう人が居てもいいと思うし必要だが、積極的に増やすことはしたくなかった。少なくともこの2年間では。

我ながらナイーブすぎるとは思うがそういう理由で「お金やモノをあげる系」はやりたくなかったしやらなかった。

 

所長さんが来てみんなの前でプレゼンをして質問の時間になった。さっき議論をしていた同僚から質問が出た。

  1. 活動で苦労した点は何ですか?
  2. 人々の「依存心」です。自分で努力をすることなくお金をくれモノをくれという態度が開発において最も大きな障害だと思います。

同僚は納得したようだった。建前上は。

 

協力隊について

 

協力隊の目的は、正確な文言は忘れたが「日本の若者の育成」「文化交流」「技術移転」の3つだ。前の2つはとりあえず置いておく。

「技術移転」の対象は配属先で、配属先同僚の能力を向上させることが求められる。ただ同僚はそれぞれに仕事がありボランティアにかまう余裕がない場合が多い。私が見聞きした限りでは「配属先同僚と一緒に活動しなければならない」という強制力はそこまでなかった。

配属先は農業、漁業、畜産業、観光業、商業の振興を図るという業務の幅が広いところだ。

 

これらの条件を自分なりに解釈すると、「任地で地元の人のためになることをあなたなりにやってください」ということになった。実際にこの姿勢で2年間やっていたが活動についてJICAからお叱りを受けることはなかった。私が何かやろうとするとき調整員さんは常に応援してくれた。調整員さんには恵まれたと思う。大学生の夏休みぐらい時間があって自由な環境だった。JICAは安全管理のためにいろいろルールを設けており、具体的には移動に関する制限が多いのだが、特に旅行好きというわけではないので気にならなかった。

 

自由過ぎてつらい日も多かった。朝、配属先に行く。7:30から始業で同僚はだいたい8:00すぎに出勤する。スマホに夢中の同僚を横目で見ながらポルトガル語を勉強する。10:00には配属先にいることがイヤになって町に出る。適当にブラブラ歩いて町の人たちとおしゃべりする。昼食をとってからまたブラブラして早い時間からまずいビールを飲む。任地に着いてしばらくは毎日だいたいそんな感じだった。誰にも何も求められない。2年間で一番つらかったのはこの点だ。「学校の先生として派遣された人がうらやましい。活動の場があるから」というのは何人かから聞いた。私も同じことを思った。

 

でも24時間好きなことが出来て生活が保障されているというのは最高の贅沢だと思う。2年間と、期限が明確な点もいい意味でプレッシャーになった。生活上は断水とか停電とか病気とかいろいろあるがそういうのは割とすぐに慣れた。あとはもう貴族みたいなものだ。

活動の場がない苦しさも必要な過程だったと今では分かる。最初から場所があったらそこに居付いてしまっただろう。結果的にほぼやりたいことだけにトライさせてもらえた。すごい制度だと思う。

 

もちろん、職種(コミュニティ開発、何でも屋)、配属先(業務の幅が広い。放任)、任地(一番近くの日本人がいる町までバスで3時間)、前任(引き継がなければならない活動を残さなかった)、JICA事務所の意向(何をやるにも応援してくれた)、など様々な条件が揃って協力隊って自由でよかったという結論に達しているのであくまでも個人の見解だ。

 

写真は家の近所のバー

 

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この投稿では印象的だった諸々の活動について記載する。

養蜂について

 

派遣の最初の目的は養蜂の普及だった。グループ派遣という形で同じ州に6、7人が派遣されており、ブラジル在住の日系ブラジル人養蜂家が、年に4回ボランティアに養蜂の研修を施し、そこで学んだことを各ボランティアが任地で普及する、という壮大なプロジェクトの一部として派遣された。なぜ日系ブラジル人なのかというとモザンビーク公用語ポルトガル語だからだ。私が派遣された時期はプロジェクトの残り期間が1年というあたりだった。

派遣前は現地で養蜂に取り組む気マンマンで、つてを頼って一日養蜂体験をさせて頂いたり本を読んで養蜂をやるイメージを膨らませていた。

でも実際には養蜂をやらなかった。農業関係全般に言えることだが、2年間の任期中に収穫できるのは一回、多くて二回なのでトライ&エラーの回数が少なすぎることが大きな理由だ。他にも色々理由はあったが省略する。同じような理由でネリカ米(乾燥に強いお米の品種NEw RIce for AfriCA。JICAが積極的に普及している)の普及にも手を出さなかった。同じ州の他の任地のボランティアは養蜂かネリカ米もしくは両方の普及をメインでやっている場合が多い。

任地へ行く前の調整員さん(ボランティアの世話役の人)との面談では「最低一回は養蜂の研修に参加するように。それ以降は養蜂をするかしないか自分で判断してよい」とのことだったのでそうさせてもらった。

 

ハチミツパン売り(特産品の開発)

 

任地についてだいたい3か月目ぐらいで始めた。

養蜂の勉強のためにいろんな人にお世話になったにも関わらず、結局何もやらなかったので罪悪感があった。せめて自分に出来ることで養蜂に関係することは何かを考え、ハチミツの需要を増やそうと思って企画した。

任地ではコッペパンに何かをはさんだサンドイッチが軽食として広く普及しており、卵焼きをはさんでマヨネーズをかけたものかハムをはさんだものが売られていた。販売方法は子どもがプラスチックのケースに入れて行商する、お店で売る、道端の露店で売るなど様々ある。

コッペパンにハチミツとマーガリンをはさんだものを作ってみた。日本のコンビニで売られているものとだいたい同じ味になる。販売価格を既存の類似商品と同額に設定し利益計算をすると一個売って利益はだいたい10円だった。

1、2か月、自分で行商をして感触を確かめてみたところ、半日でだいたい10個売れた。1日の利益が100円ならば子どもの仕事か露店の人のサイドビジネスとして成立する。仲の良かった露店のおばちゃんに販売を託してみた。

そうすると不思議に売れない。見ていると、おばちゃんは商品のアピールをしない。私がそばにいて声掛けをすると少しは売れるがおばちゃん自らお客さんを呼ぶということはなかった。地元の人たちには露店の商品に対する不信感もあった。「道端で売っているモノを食べるとお腹を壊すよ」というのは多くの人から言われた。私自身はそういうのを食べてもお腹を壊すことはなかったのだが。外国人が行商をやっているという物珍しさも手伝って購入してくれていた、というのもある。外国人なら質の悪いものを売らないという安心感もあったかもしれない。

全然売れないので販売委託先を変更しようか考えていたところ、そのおばちゃんが盗難に遭いハチミツなどの資機材一式を盗まれて終わった。

ギターを弾いてお客さんを集めたり、ぶらぶら歩いてハチミツパンを売るのは結構楽しい経験だった。

 

養鶏

 

私は同じ任地に派遣された三代目の隊員で、初代二代と続けてお世話になった農家さんと養鶏をした。任地について1か月ぐらいで養鶏をすることが決まって鶏小屋の建設を始めた。ポケットマネーを貸して鶏小屋を作るところから始めた。マックス時で50羽ほど飼育していた。クリスマスの時期に鶏の価格が高騰するのでその時期に販売しようかと話していたら直前で盗難にあい、もう少し増やしてから売ろうかとなった矢先に伝染病でほぼ全滅した。帰国前には15羽まで増やしたが販売には至らなかった。販売のところで何かトライできると思っていたので残念だ。

伝染病で死んだ鶏は農家さんが穴を掘って燃やして埋めたらしいのだが、伝染病で死んだ鶏は食べられないのだろうか今も疑問だ。農家さんに「なんで食べなかったの?」と聞いたら「食べたら病気になって死ぬ」ということだった。もしも食べられたのならみんなで鶏パーティーが出来たのに。

都市部のレストランの残飯をエサとして活用するというのをやっていた。協力してくれるレストランに毎日行って残飯をもらう。自宅の冷凍庫に保存しておき週に1回村に持っていく。体感20kgの氷の塊を運ぶのはいい運動だった。鶏が一度全滅した後、農家さんが自分でブタを飼い始めておりブタのエサとしても活用されていた。これを仕組化したかったのだが出来ずに終わった。

鶏もブタもかわいくてなごんだ。

貸したお金は当時のレートでだいたい10万円だが私の任期中には返ってこなかった。

 

観光客誘致用の町のホームページ作り

 

任地が観光地なので観光産業の促進を目的として町のホームページを作成するというのをやった。確か半年目ぐらいだったと思う。任地に行った当初、配属先で一緒に活動をしたい人を探す中で、観光の担当者がいい感じだったので、その関連のことをいろいろ考えた。これはその一つだ。任地にあるホテルやレストラン、お土産屋さんの紹介をする感じにしようということになった。

ホームページ関係の知識はゼロなので色々な人に質問をして始めた。始めてみると思ったよりもテクニック的に難しく、観光担当も自分の仕事があっていつも私に付き合ってくれるわけではなく、部屋にこもってパソコンをポチポチいじっているのが馬鹿らしくなり確か2つ記事をアップして終了した。パソコン関係は自分には向いていないことが分かった。

任期終了の半年ぐらい前に、観光担当の人から「ホームページどうなった?」と聞かれて、「ずいぶん前に止めた。君がやりたいのなら今から勉強し直してやり方を教えるよ。結構大変だと思うけどどうする?」と応じた。その後何も言ってこなかったのでそのままになった。

 

ランニングクラブ

 

町にはジョギングをしている人が何人かいて、そういう人と一緒に走れたら楽しいだろうなと思ってやってみた。募集のチラシには当時体重約100kgで福井マラソン10kmを走った自分の写真を採用した。効果バツグンだった。2週間ほどチラシを配って人を集めた。うまくいくかと思いきや、バイクでこけてしまって走れなくなり、運動しないので太って諦めた。怪我が治ってからジョギングをしていると、チラシを配った人から「太ったねー!ランニングクラブはどうなったの?」と聞かれることがあった。「痩せるから待ってて!」と返していたが待ちぼうけを食わせてしまった。毎日おいしいものを食べすぎた。

 

観光客向けの現地文化講座

 

現地語を習っていた先生が経済的に大変そうだったので企画した。内容は現地語の日常会話と郷土料理の教室だ。料理の方は先生の奥さんが担当することになった。現地語の簡単なあいさつや日常会話を載せた小さな教材を作りバックパッカーがよく泊まるホテルへ売り込んでみた。最初の売り込みでは「今は観光のシーズンではないのでまた来てくれ」と追い帰され、それから何回か顔を出してみたのだがスルーされた。現地語を使って市場で買い物をするとか、地元のおばあちゃん(先生の奥さん)と郷土料理を作って一緒に食べるとか、そういうのが好きな層は存在すると思うのだが。先生が80歳を超えており体力的に不安視されたというのはあるかもしれない。

 

オレンジピール(オレンジの皮を砂糖で煮詰めたもの)

 

タクシーグループの運転手の奥さんに、学校の前で生徒さん相手に軽食を売っている人がいて仲良くなった。5、6人が軽食を売っているのだが、みんな少ない種類の同じ商品を売っているので商品を増やしたら楽しいんじゃないかと思って販売を勧めてみた。レシピは先輩隊員からもらった。オレンジの皮は道端でオレンジを売っている人に言えばただで手に入る。

自宅で練習したうえでお宅にお邪魔し一緒に作ってみたがあまり響かないようだった。家で再度練習していると、居合わせた友人に「そんなに砂糖を使って。もったいないし病気になるよ」と言われ、「正論だ」と思って止めた。

この理屈でいくと砂糖、塩、油などを大量に使う保存食関係は全てダメになるが、任地では塩漬けにされた魚の干物があるので全てがダメというわけではないらしい。魚はもったいなくてもオレンジの皮はもったいなくないということだろうか。実際にもったいなくないのだが。オレンジの皮を土に還すのと、砂糖と火を使って糖尿病のリスクを高めるのとではどちらがエコなのだろう。

単に馴れていないというだけの可能性もある。未経験の味覚を楽しもうという意識がない人が多い。それが悪いという訳ではなくて。

この壁を破ろうとするならばオレンジピールの普及に情熱を燃やす必要があるのだがそこまでの情熱はなかった。

 

小さい頼母子講(たのもしこう)

 

市場のおばちゃんたちと関わるなかで、彼女たちには商売に割く余力が少ないことが分かった。興味の中心が家族にあることも分かった。最小の努力で生活の質を少し上げる方法はないかを考えてこれを思いついた。マイクロファイナンスの原型みたいなもので、ざっくり言うとお金を融通し合うグループだ。日本では無尽、講などとも呼ばれている。沖縄ではもやいというらしい。モザンビークにもある。市場で働くおばちゃんのなかでそういうグループ(現地語でエスティーキという)を主催している人がいて、興味があったので見学させてもらっていた。他のところも見てみて、どうやらこの地域では一回の受け取り額が約10,000円で主に商売向けに利用されていた。小さくして家庭での消費用に出来ないかと思った。

エスティーキを主催しているおばちゃんに「家でパーティーをするための小さいエスティーキを作らないか?」と聞いてみると乗り気だったので一緒に計画した。

計画では、

5人か6人でグループを作る。

週に1回一人200円ぐらいずつ出す。

メンバーが週ごとで順番に1,000円か1,200円ずつ受け取る。

一周したら逆に回る。

繰り返す。

という風になった。

グループ内の全員がお金の貸主になり借主になる。利子のない金融機能だ。

実現すれば家でごちそうを食べる機会が少し増えるはずだったがなかなかメンバーが集まらず、そのうちエスティーキを主催しているおばちゃんの商売がダメになって市場に来なくなった。そのおばちゃんが市場からいなくなってからも声掛けをし続けたが実現できずに終わった。

なぜメンバーが集まらなかったのか。多分、経験から失敗をすることが分かるからだ。みんな詳細には話さないがお金関係で嫌な思いをした経験があるようだった。私でも失敗のパターンが想像できる。人間関係は重要な資産なので、人間関係が壊れるリスクは極力負いたくないということなのかもしれない。

この仕組みで一番良い点は、ダメになっても(メンバーの誰かがお金をもって来られなくなっても)ダメージが少なく、ある程度時間をかければ再開可能なところだと思っていたので、とりあえず試してみてどんなことが起こるか見てみたかったのだが。まあ求められないことをやろうとしてもダメだ。

 

普通の人が状況を改善しようとするとき、似た立場の人とグループを作るというのは基本的な戦略だと思う。特に、お金を極力使わずにアイデアで何かしようとする場合グループ化はほぼ全ての事例で必要になる。だがそこが難しい。

グループをまとめるのは大変だと分かっていたので個人とやる活動をたくさんやったのだが、個人との活動では効果に広がりが少なかった。場の相乗効果みたいなのもグループでの活動の方がある。みんなでやった方が楽しいし。

タクシーグループの活動も楽しかった。失敗して落ち込んでいると思われているかもしれないが、ミーティング時の騒いでいるのか話し合っているのかどっちか分からない感じは今思い出してもうれしくなる。

 

アフリカのことわざで、「早く行きたければ一人で行け。遠くへ行きたければみんなで行け」というのがあって、モザンビークでも公的機関の啓発ポスターにポルトガル語で書いていた。なぜそのことわざをいちいち掲示しているのかというと実現が難しいからなのだろう。実現が難しいからといって目指さなくていいわけではない。

 

日記付け

 

帳簿付けのバリエーション違いとして活動の終盤にやってみた。「書くこと自体を楽しむのはどうか」と思って日記をつけることを勧めたのだ。自分の経験から日常を文字にして現状を客観視することは大きな意味があると思ったからだ。ブラジルの教育学者パウロフレイレから政治色を抜いた感じを目指した。結果として10人ほどと交換日記をするようになった。ただこちらから言わないと書かないので継続する見込みはなさそうだった。日記付けを始めてすぐに、「これをやるなら何らかの教育機関にアプローチした方がよい」と気付いたが時間が無くて出来ずに終わった。交換日記は1か月ほど継続した。

 

活動全般について

 

任地を離れる2週間ぐらい前に、その辺でジュースを飲んで店のおばちゃんと話しをしていた。話の流れは忘れたが、そのおばちゃんが遠くの町に行った際、道でストリートチルドレンの女の子と出会い、かわいそうだからと連れて帰ってきて育てているということを教えてくれた。家族は大反対したが「かわいそうだから」の一点で押し切ったそうだ。すでに5年ほど育てており学校にも行かせているらしい。「この町には孤児院がないから作りたいの。私の夢なのよ」と言っていた。

孤児院を運営するより家族として子どもを育てる方がある意味では大変だと思うのだが、「かわいそうだから」だけでやってしまう懐の深さに脱帽した。

その時の会話で、市場にいる汚れた感じの子どもたちに家がないということも始めて知った。恥ずかしい話だが。

配属先がお金関係のところなので主に収入向上について活動したのだが、お金関係のこと以外のことをやろうとしても、話し方次第で配属先は認めてくれたと思う。

分野とかに関係なく自分に出来ることはいくらでもあった。アンテナが低かった。

 

先輩の隊員に教えてもらったのだが活動は二つしかないそうだ。「仕組作り」と「人材育成」とのことだ。ボランティアが帰ってからも地元の人で活動を発展できるようにしなさいということだと思う。一応、そういうところを目指していたので任期が終わりに近づくほど新しい活動を控えるようになった。先のことなど心配せずもっといっぱいやればよかったなと今は思っている。どの活動も始める時の熱みたいなものが一番楽しいのでもっと味わっておけばよかった。

 

写真は行商仲間の人

 

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帳簿付けの普及活動について

現地ではいろいろやったがこの活動が一番勉強になったと思う。

※要約 この活動を通して、援助の人は相手に対する敬意と「相手を変えてやろう」という欲の両方が必要なことを学んだ。最後まで書いてみて分かった。

 

毎日市場で買い物をしていたので露店で野菜とかを売っているおばちゃんたちと友達になった。この人たちと何かできないか、と考えていて帳簿付けの普及を思いついた。任地に行って10か月目ぐらいから始めてみた。当時、近所の人と雑貨屋さんをやっていて帳簿を付けていたのでその延長でやってみた。帳簿付けを入口にして人間関係を深めつつ、データをとりつつ、ゆくゆくは商品の差別化、売り方改善、原価低減ができないかなと思っていた。人間関係とデータがあれば、アイデアはいくらでも出そうに思えた。

 

JICAのお金を使ってノートを100冊購入し、帳簿付けの勉強がしたい人を対象にして市場で配ってみた。翌日行ってみると、彼女たちは市場にノートを持ってこない。一緒に帳簿をつけることも当然出来ない。彼女たちと会話をすると帳簿というのがどういうものかは知っているようだった。「お金の出入りとか商品の在庫を管理するのに重要だわ」というようなことを語ることができる。でも持ってこない。「明日持ってくる」といって忘れるのか意図的なのか不明だが持ってこない。子どもの学校用に使ったと言われた例も結構あった。

 

帳簿付けの勉強がしたい人でノートが欲しい人は自分でペンを用意する、というルールに変更したのだが結果は変わらなかった。結局70 冊ほど配ってみたが一日か二日ぐらいは付ける人がいたがそこから続かず帳簿を付けることが罰ゲームみたいになっていた。活動の入口のつもりで始めたのに入口で思いっきりこけてしまった。

 

ノートを配り始めて二か月ぐらいして、一人のおばちゃんと雑談していて、「みんな全然帳簿を付けてくれなくて悲しいなあ」みたいなことをポロっと言ったら、同情してくれたのかノートを持ってくるようになり、継続して帳簿を付けてくれるようになった。なんだかかわいそうな外国人に現地の人が付き合うという構図だ。

 

最初の一人の影響で一時は10人ほど付けてくれるようになり、結局5人ほどが「毎日、帳簿をつけるように言うと3日に1回ほどつけてくれる」という感じになった。毎日つけている訳ではないので商売の記録としは機能していないし、自発的に記帳するという人はいなかった。

どうやら個人でやっている小規模の商売にとっては、帳簿って、あればいいのだろうけど必要はないようだった。任地でもちゃんと店を構えているところでは基本的に帳簿を付けていた。私が相手にしていた自分の前に1メートル四方のゴザをしいてトマトやらを並べているような人は、自分の感覚で商売をしても問題ないようだった。財布を開けばいくら持っているか分かるし在庫の把握は一目で出来る。帳簿をつける労力に対して得られるであろう良いことが少ないということのようだった。

帳簿を付けることによって劇的に利益が上がるということはない。例えば、最初に帳簿をつけ始めたおばちゃんは、遠くの親戚が病気になって看病に行ったとかで仕入れのお金を使ってしまい商売を続けられなくなった。こういう事例はたくさん見た。親族のイベントを疎かにするという選択肢は彼女たちには存在しないので、いかに商売の記録を残そうがこのような事態は避けられない。結局、帳簿についてあまり強く言うことはせず、とりあえず一緒にいようと思って市場に通うことになった。

 

市場で時間を過ごすことによっていろいろ勉強になった。

 

任地産のものが少ない

 

任地に行った最初から思っていたのだが市場で売られているものの大半は首都のマプトから持ってきたもので、次に多いのが隣国の南アフリカ産、中国産のものもあった。ちなみにマプトへはバスで12時間ぐらいかかる。週に1回マプトからトラックで卸売業者がやってきて市場のおばちゃんたちに商品を卸す。おばちゃんたちはそれを販売するという流通経路が出来ていた。インフラ問題か生産量の問題かそれら両方か、地元産の製品が出回るのは時期が限られており量も少なかった。そこで生産側からアプローチしようと思ってNGOがやっている農家のグループに参加して週に一回農作業をしてみた。参加して一か月ぐらいで農作業をまじめにやるメンバーとサボるメンバーの対立が始まって、各メンバーに土地を割り振って担当の土地だけ耕そうということになり、どこの土地を誰に割り振るかで揉め非常に雰囲気の悪い感じになった。だいたい二か月ほど通ってから止めた。農家のグループが崩壊していく過程を見るのは興味深くはあったのだがそこから何か活動につながることはなかった。

任地産品の流通量が少ないのは事実なので、純粋に収入を向上させることを目的とするならば、奇をてらわずに日常的に食べられる野菜や穀物を生産するのはありだったと思う。それをボランティアがおもしろがってやれるかどうかは別の問題だが。

 

女性が仕事をするのはとても大変

 

市場にはほぼ毎日通っていたのだがいつも居るおばちゃんというのは少ない。聞いてみると、子どもが熱を出したとか銀行に行くとか親戚が病気だとか家の出来事がたくさんあり、彼女たちが市場に来て商売をすること自体がものすごく大変そうだった。商売に割く余力は少ない。日本に比べて子どもが家事労働を負担する割合は高いが、一家の主婦をしながら商売をしているのだから大変だ。

 

現状に満足しているように見える

 

現状を変えることを諦めて受け入れているのか満足しているのかはよく分からないが、変化を望んでいないように見受けられた。望むことは今日と同じ明日で家族が健康ならよし、という感じだろうか。商売を頑張って利益を増やそうとは考えていないようだった。というか現状を維持すること自体が大変そうだった。

 

彼女たちの印象を抽象化すると、「神様がいれば、言葉を換えると死の問題を解決すれば、あとは自分が出来ることを出来る範囲でやって起きたことは全て受け入れる」という感じだろうか。人によって程度の差は当然あるが、彼女たちはこの考え方に近いものを持って生きているように見えた。

 

私の考えは、彼女たちのものからだいぶ遠く、自分を変化させたり、現状を変えようと試みたり、そういうのが楽しいしそこに力を尽くすのが大事なことだと思っていたし今も思っている。彼女たちにもそういう楽しさを体験してもらって「自分の生活を自分でよりよく出来る」という自信を付けて欲しかった。でもどうやら彼女たちはそれを求めていないようだった。

 

彼女たちが持っているように見える考え方からすると、私が考えていることは無駄が多い。環境の違いと言ってしまえばそれまでだが、私の場合は良くも悪くも死の問題の手前の問題について選択の幅がある。その幅を広げながらバタバタしてしんどかったり楽しんだりするというのが私のアプローチで、彼女たちと一緒にそのバタバタをやりたかった。私のアプローチをやろうとするなら、彼女たちの完結した考え方を一度壊し、不安定な状態にしてからしか出来ない。それってすごく難しいし無粋だ。両者の考え方は同じ地平に乗っているとは思うがだいぶ遠い。人生の達人度合で言ったら彼女たちの方が圧倒的に上だと思う。いや、そこで上とか下とか言っている時点でセンスがないかもしれない。

 

彼女たちの商売は儲けが少ない。人にもよるし日にもよるが一日で200円ぐらい、多くて400円程度だ。10円20円の場合もある。彼女たちのことは好きなので、利益が少しでも上がって、おいしいご飯を食べたり子どもにきれいな服を着せたりできるようになって欲しかったのだが出来る気配がなかった。変な表現だが、付け入る隙を見つけられなかった。お金やモノをあげれば彼女たちの生活は安直に改善するが、ボランティア期間中は極力やりたくなかった。

 

援助の人的な発想ではこういう場合、「成功体験を持たせよう」一択なのだが、そうは思わず(思えず)、彼女たちの商売に対して敬意が足りなかったなと思うようになった。例えば同じ商品を同じ場所で同じ価格で売るとか、先進国の人からすると工夫がないように見えることが多いのだが、曲がりなりにも彼女たちは自分の商売で生活を維持している。それってすごいことだよなと思うようになった。

 

そうなると活動のアイデアはあまり出ず、もやもやしながらもおしゃべりしたりして一緒に楽しむ方向へシフトした。彼女たちとお互いの家族の話しなどをしてそれはそれで意味があったと思う。

 

ここまで書いてみて分かったのだが、前半は「相手を変えてやろう」という欲が強すぎて敬意が足りなかった。後半は相手に対する敬意が強すぎた。援助の人としては「変えてやろう欲」と敬意、両方必要なのだと思う。両方の適切なバランスを欠いていた、ということが分かった。

 

 

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今日で実家に戻って一週間たった

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今日で実家に戻って一週間たった。

実家でのんびりしていたらモザンビークのことが急速に「いい思い出化」している。ちゃんと記憶に留めておくためにこの文章を書いている。すでに区切りがついたことなのでFBに求められるライブ感みたいなものはないがライブ録音ぐらいの臨場感はまだあると思う。誰かに読んでもらいたいというよりも自分のためにこれを書いている。

 

追記:あんまりにも長かったので要約を書いておく。三輪タクシーのグループ化はうまくいかなかった。グループで仕事をするには約束を守ることが大前提で、実際に働く中でそこを一番伝えたかったのだが難しかった。

 

 

この文章では三輪タクシーについて書く。

 

主な出来事を時系列で並べるとこうなる。

 

16年6月 三輪タクシーを買う

16年8月 はじめに管理を任せていた人に辞めてもらう

16年12月 グループ化と業務開始

17年3月 メンバーが増える

17年5月 管理を現地の人に託す

現在 観光客向けのツアーを企画中(多分)

 

輪タクシーを買う

 

輪タクシーを買ったのは成り行きだった。ご近所さんで仕事のない人がいて一緒に何か収入源を探すことになった。いろいろ話しをして何かできないか考えて会話の中でお兄さんが三輪タクシーの運転が出来るという話しが出てきた。偶然同席していた大家さんが「タクシーは儲かる!そのアイデアはいい!」と盛り上がって、そのお兄さんとも話し、一台買うことになった。大家とそのへんにいるタクシー運転手に「タクシーを売る気はないか?」と声をかけまくり購入に至った。ちなみに町には少な目に見積もって50台以上のタクシーが稼働している。

 

これでお兄さんがタクシーをやって生活が改善するかというと少し話しは違っていて、お兄さんは車の運転は出来る、出来るのだけど車の免許がないので運転手はできない、だから運転手は別に連れてくるというと言いだした。言語的な問題で意志の疎通が十分でなかったのかもしれないが、軽くだまされた感じになった。が、タクシーはあるし使わないともったいないので、

・お兄さんが探してきた運転手2名が交替で営業をする

・お兄さんが車の使用料を徴収する

・お兄さんが私に車の使用料を払う

というよく分からない二重搾取な体制でスタートした。

 

スタートしてとりあえずは回った。ただしお兄さんとは週に一回会っていたのだが毎回めちゃくちゃ遅れてきた。来ない時もあった。全体的に敬意が感じられない。最初の目的である「ご近所さんの収入向上」はクリアしているのでいいっちゃいいのだがストレスが溜まるし全然つまらない。こちらとしては実務について学んで改善点を探ったりアイデアを出したりしたかったのだがこの体制だとドライバーと直のコミュニケーションもとれずそれも出来ない。

 

お兄さんにやめてもらう

 

という状態が2か月ほど続いてある時「来週時間通りに来なかったら車を貸すのを止める」と宣言した。翌週、ちっとも姿を見せなかったのでご近所さん(お兄さんの妹さん)を呼んで「彼と仕事したくないから車を貸すのを止めていい?」と確認して「いい」ということだったのでそうした。働いてもらっている運転手の一人、エウジェニオを呼んで「お兄さんに車を貸すのを止めてお前に直接貸したい」と伝えたらOKとのことでそうなった。エウジェニオと契約内容について話して車を運転手にローンで販売する形式をとることにした。自分の車なら丁寧に運転するだろうと思ったからだ。その時点で任期が終わるまで1年と少し。この運転手は無事ローンを払い終えることが出来て自分の車をゲットした。ちなみに任地では自分の車を持っている運転手は非常にまれでパトロンに、私から見ればかなり高額なレンタル料を払って仕事をしている場合が多い。契約内容によってはレンタル料を払うために昼夜問わず働く人もいる。私たちの契約では週にだいたい6,000円を返済することになった。結果的には車を売ったお金は購入金額+40%弱になった。

 

グループ化してみる

 

再スタートしてエウジェニオの人柄を見極めつつ実務の勉強をした。エウジェニオは結構賢い奴でこちらの意図や表情を結構読めることが分かった。勉強面ではエウジェニオに対するインタビューと簡単な走行記録を付けさせて内容の把握に努めた。また自分でもたまにタクシーを利用してみた。

 

自分が利用者になって問題はすぐに見つかった。タクシーを呼んでも来ないのだ。来るときは来る。それこそ2分で来る。でも来ないときは来ない。30分、1時間もしくは勝手になかったことにされている場合もある。はまればすごいがダメなときは全然ダメだ。アフリカサッカーと同じ傾向だ。

 

理由は明らかで、例えばこういう場面に出くわした。客としてタクシーに乗っている時、運転手にお客さんから電話が入る。「okすぐ行くよ」と返事をする。私が目的地で降りる。そこに偶然タクシーを待っていたお客さんがいる。するとその場にいたお客さんを乗せて電話のお客さんのいる場所とは違う場所に行ってしまう。要は適当なのだ。

お客さん側も運転手たちの適当さ加減を知っていてタクシーを利用する人は運転手の番号を5つぐらい持っている。電話でかならず相手の状況を確認して確実にすぐ来られる運転手を呼ぶ。任地の人たち曰く「ビランクーロの運転手は真面目じゃないから」とのことだった。

 

代金についても適当で同じ距離を走っても代金が違う。特に私の場合は外国人なので事前交渉が必須だ。もっと言うと私がこの町に住んでいると知らない運転手はおもしろいほどふっかけてくる。暴利でも先進国の感覚からすると異常な高さではないので観光客は払ってしまうのだろう。

 

待ち時間の短縮と過剰請求の防止、課題は二つ見つかった。次は一緒にやってくれる人だ。

 

町で信頼できる運転手が誰かなんてちっとも分からないのでとりあえずエウジェニオに意見を聞いてみた。

「今ってお客さんを待たせることが多いでしょ?グループを作ってお客さんに近い運転手が派遣される仕組みってどう思う?」

「ボス、それはいいアイデアだ。ぜひやろう」

「じゃあ信頼できる運転手を集めといてよ」

「分かった。何人いる?」

「分からんけど5人。来週までに集めといて」

「OK」

という感じになった。現地の人がこちらのアイデアや意見に対して最初から否定することはあまりない。だいたい最初はいいね、とか、やろうよ!とか前向きな姿勢を示す。ただ実際に行動することはあまりない。何か始める時の負荷を想像できないのかもしれない。後で何か適当な理由をつけられて頑張っているのはボランティアだけになるというのは典型的なパターンだと個人的には思う。最初から期待すると肩透かしを食ってしまうので、彼が本当にメンバーを集めるかどうか様子をみてみた。

 

翌週、本当に5人集めたので市場の空いている場所で一度集まってみた。よく言えば活気がある、悪く言えばまとまりがない、みんな思い思いのことをわーわーしゃべって人の話しを聞かない。みんな初対面の私に対して軽いマウンティングをかましつつ現地語まじりのポルトガル語で騒ぐのだが勢いはあり、外人と一緒に仕事が出来ることに興奮しているみたいだった。

初回はとりあえず顔合わせをして後日改めて集まって仕組みについて話し合った。タクシーサービスの質を向上させること、具体的には携帯電話を使った配車のサービスと料金表の作成と配布だ。各運転手は通常個人で営業しておりチームの仕事が入ると空いているお客さんに近い運転手が対応する。お金は売上の10%を管理者に支払うことにした。見込み客をとりあえず観光客にして町にあるホテルや観光案内所など約30か所に配布して始めてみた。

 

始めてみて

 

12月に始めたのだがちょうど観光のハイシーズンということもあり結構利用があった。やっていくうちに改善点も見えてきて週に1回のミーティングで話し合って改善するサイクルも出来た。ミーティングでは

・お金の受け渡し

・その時々のトピックについての話し合い

・安全とかチームワークとかお客さんを大切にするってどういうことかとかについて書いたものを毎回配って話しをする

という三つをやった。毎回かなり盛り上がった。

 

実際の業務の流れもだんだん出来て、

  1. お客さんから管理者に電話が入る
  2. 管理者がグループにお客さんの情報をメールで流す
  3. 手の空いている運転手がどれぐらいでお客さんのところに着けるか返信する
  4. 一番近い運転手を指名して全員に返信
  5. 運転手がお客さんのところに着いた旨を管理者へ連絡

ということになった。

 

このあたりでの問題点は二点あった。メンバーが足りないこととホテルの従業員向けのワイロというか紹介料だ。5人の運転手全員から返信がないことが結構あり、せっかくの依頼を断ることがあった。メンバーを増やすことについては始めて2週目ぐらいから議題に上っていたが運転手たちは消極的だった。もう一点のホテル従業員への紹介料なのだが、観光客がタクシーを使いたい場合、通常ホテルの従業員へお願いする。地元の運転手たちは従業員とコネを作っておき仕事を回してもらう代わりになんらかの紹介料を払っていた。紹介料は観光客からもらった高めの代金から支払われていた。自分たちのチームでは観光客に対しても地元客と同じ価格設定だったので紹介料を払う余地はない。自分のポケットマネーを払うのはナンセンスなのでとりあえず「笑顔パスポート」で乗り切ることにした。

 

メンバーを増やす

 

そんな感じが3か月ほど続き、ミーティングでメンバー不足を解消してお客さんを増やそうという話しがメンバーから出てきた。個人としては仕事が減る方向なので少しはチームのことを考える力がついたのだと思う。結構うれしかった。初期メンバー一人が信頼できる運転手一人を連れてくるということにした。連れてきたメンバーが新メンバーにルールを教えてくれと。結局、自分が直接説明することが圧倒的に多かったが。

メンバーを増やしてとりあえず誰かは対応可能な状態になった。反面、モラルハザードが顕著になった。ヒマな運転手がお客さんの近くにいるとうそをついて仕事をもらう。他の運転手もマネをする。うそが発覚してミーティングで怒る。ちょっとよくなるがまたすぐモラルが崩壊するというイヤな流れが酷くなった。信頼関係の下に成立している仕組みなのでウソをつこうと思ったら簡単につける。たちの悪いことに不誠実な運転手ほど個人の固定客がおらずメールへのレスポンスが速い。結果的に質の悪い運転手ほどチームの仕事を多くこなすようになった。お客さんへの対応の差も広がった。例えば大き目の荷物を運んであげるとか未舗装路も走ってくれるかとか、対応の差が拡大し地元の固定客も利用を控えるようになった。信頼できる運転手を自分で呼んだ方がよいサービスを受けられるということだ。何か手を打つ必要があった。

 

色々模索する

 

まず考えたのは運転手の数をもっと増やすことだ。運転手とのやりとりは携帯のメールを使っている。モザンビークでの携帯使用料は前払い制で、道で売っているクレジットというものを買って利用する。一人に1本メールを打つたびに少額だがお金がかかる。管理者が10%手数料をとって手数料のうちから携帯のクレジットを買うとなると、当時10人の運転手がいたのだがそのあたりがメール本数の限界だった。WhatsUppというLineみたいなアプリを使って、町中全ての運転手をチームメンバーにしてしまえば誰かがすぐにお客さんのところへ行けるんじゃないかと考えた。この案はメンバーが大反対した。運転手たちは廉価なスマホを使っている場合が多いのだがデータ授受を閉じている場合が多い。FBやWhatsUppが勝手に起動してクレジットを消費してしまうからだ。また携帯本体の性能が低いものが多いので少し古い携帯だとデータ授受を開きっぱなしの状態で電池が半日ぐらいで終わってしまう。一日外に出てお客さんからの電話に対応する運転手にしてみれば仕事が出来なくなる。試してみたが全然既読にならず失敗した。

 

地元客を増やそうとビラや名刺を配ることも増やした。これはある程度効果があった、が質のよいサービスを提供できず一回限りの利用に終わる場合が多かった。地元客は運転手と個人的な関係を結びたがる。友人になれれば料金が下がるからだ。対応もよくなる。チームの場合、どの運転手が来るか分からないので地元客はいつまでも普通のお客さん対応から友人対応へ移行できない。運転手側から見ても個人的な固定のお客さんを作りたいのにそれが出来ないというジレンマがある。

 

モラルハザードの状態が続いて、この仕組みは正直うまくないと認めざるを得なくなってきた。うまくないというのは彼らに適していないという意味だ。運転手は全員が個人事業主で自分の利益を最優先にする。マンパワーモラルハザードの芽を常につぶすのは難しかった。あまりに仕事ぶりの悪い運転手には辞めてもらったりしたのだが「チームを裏切ってもその場の利益を最大化できた方が得だ」という考えをなくすことができなかった。本当はこの点を一番変えたいところだったのだが。もともと真面目な運転手は個人で固定客を多く持ちチームでの仕事はあまり必要ではない。不真面目な運転手を管理するにはこの仕組みは穴がありすぎる。

 

現地の人に管理を任せる

 

自分が帰国した後にチームをどうするかも決める必要があった。帰国後、存続させるならば新しい管理者を見つける必要があるが適任が見つからずにいた。運転手が日替わりで管理用の携帯を持ちながら仕事をするという案もあったが、任期中に運転手たちの教育をやっていました、ということで終わってもいいかなと思っていた。と思っていたらメンバーの一人が携帯屋の店長に引き抜かれて運転手を辞めてしまった。ある程度時間に融通が利くし知識もある。管理者の移譲を打診したら「ぜひやりたい」ということだったので任せた。ここでも問題が起きた。新しい管理者が電話をとらないのだ。本業が忙しかったのかそういう状態が2週間ほど続いてお客はほぼゼロになった。まあでも週に1回のミーティングとたまにチラシを配ることを続けるという流れになった。仕組みはあるがほぼ利用されないというのが帰国の半年ほど前だ。その後、少し浮き沈みはあったが最後までそんな感じだった。

 

帰国前

 

帰国前にお別れ会件ミーティングをやってもらった。添付の写真がそうだ。ビールを奨められたのだが、酒を飲む機会が続いていたので「金がないから」と断ったらごちそうされてしまった。

ミーティングはすでに引き継いだ管理者が中心になってやっている。議題は観光客向けのツアーの企画だ。この案は議題としてはずっと前からあったのだが結局着手しなかった。サービス内容を自分ではいいとは思えなかったからだ。町のきれいなところを1時間ほどまわって一人2,000円ぐらいという風にまとまっていた。ホテル従業員へのワイロというか紹介料を前提として議論をしている。うまくすればかなり儲かりそうだ。1時間で2,000円ぐらいは地元の人の感覚だと高い。先進国からの観光客は妥当と考えるだろうか。そもそも比較対象がないのでお客さんがよいと思えればそれでいいのかもしれない。個人的には海岸沿いをぶらぶら歩く方が、いろいろ発見があって楽しいと思う。

まあ何もやらないよりも何かチャレンジをやっていた方がいいので頑張ったらいいと思う。企画だけして動いていない可能性もあるが。

 

任地を離れて首都に引き上げるとき、空港まで運転手の一人に送ってもらったのだが、「ボス、今までありがとう。また帰ってきてくれ。一緒に働こう」と言われた時は複雑な気持ちだった。「ありがとう。またね」とだけ返事をして別れた。